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格差があるからこそ物事に価値を見出せる(格差≒違い)


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格差は価値の源泉


目次

今回の内容は以前書いた価値についての記事から派生した内容です。

 

narumi-yamauchi.hatenablog.com

 

以前の記事のまとめ

以前の記事では価値は相対的であるということに対してそれは幻想であるというようなことを書いていましたが、それは価格が人間個人の感じる価値を完璧に反映していないことを意味して言っています。

そして、個人の価値判断と他人の価値判断の量や質は違うことが容易に想像することができます。このような違いを一つの商品でそれぞれの個人に向けてそれぞれの価格を設定することは現在の技術では極めて難しいです。

そのため、価値が真に相対的なものではないと考えています。(ただし、相対的であると思われているし、そう考えるのが楽。)現在は、大まかにお客さんをセグメンテーション(一定の数にまとめる)などをして商品自体は同じでもマーケティングでの差別化によって他社と違いを生み出すことをしています。

理想としては、一つの商品を様々な個人に向けて適切なマーケティングが行われることでしょう。(資源は有限で、人の時間も有限であるという前提において)

これこそが世界全体で言うと、資源の有効な使い方なのではないかな。

という問題意識を持ちつつ、今回の記事は端的に言うと

格差があるからこそ物事に価値を見出せる(格差≒違い)

と言った内容になっています。

 

個人的に感じる価値は相対的?

上記では、集団や個人の価値と価格との関係性を記述した例です。

しかし、人間個人にのみ注目すると、人間は物事を相対化することでしか物事を価値判断できません。

あることを「好き」と言っている状態は、「好きではない」・「嫌い」と言った状態と比べていることになります。それは意識的にしろ、無意識的にしろ同じことです。

逆に、比べることができないのだとしたら人は物事の価値判断をすることができません。

これらの感覚は主観的なものであって、価格として客観的な形で表現されません。

そのため、多くの人々は価格にばかり注目して人間本来の感じる感覚をあまり注目しません。

しかし、個人や集団の価値判断が一定のレベルで価格に反映されることを考えると、価格のもとになっている個人や集団の価値判断となっているものを考察することは非常に重要なことでしょう。

 

個人がどのように価値を感じているのか?

以上の個人の主観的な価値判断への問題意識から、以下では個人がどのように価値を感じているのかを考察していきたいと思います。

そこで、僕が考えている価値に対する考え方をご紹介します。

この考え方は、価値を距離と同じように考えます。

価値の源泉は物事の違いと考え、自分にとって当たり前となっている物事には価値は感じません。それに対して、当たり前ではない物事に対しては価値を感じます。

さらに、これを距離に適応すると、価値は距離が近ければ価値が低く感じます。反対に、価値は距離が遠ければ価値が高く感じます。

距離の事例で考えましたが、上記の内容をまとめてみます。

僕が価値に対して持っている考え方は、この距離を「違い」として考え、物理的・精神的な違いの大きさが価値の源泉であるという考え方です。

つまり、人同士の違い、物事同士との違い、人と物事との違いなどの違いと度合いを感じることで物事に価値を感じていると考えます。

ということは言い方を変えると、金銭的なものも含めた格差や環境の違いがあるからこそ人々は価値を感じるということができます。

 

違いはどこに存在するのか? 

では違いはどこに存在するのでしょうか?

違いは精神的なものと物理的なものに分けることができます。

そして、精神的・物理的な違いは

人に着目すると個人・集団・社会・国家

と言った分類が可能です。

これに対して、人ではなく物や場所に着目することもできます。

以上のように分類ができますが、それぞれ単体で違いは存在するわけではなく、物事や場所は人間がその存在を認識して初めて価値が生じます。

人間がいなければ物や場所に対して、価値を感じることはありません。

反対に、物事が存在せず、人間だけが存在する場合も、人間以外の存在を感じることができないことから人間以外のことに価値は感じないでしょう。

これらの関係性からも人は物事を認識して初めて違いを感じることができることがわかります。これらの物事と人が同時に存在、かつ、人が認識して初めて人が違いを感じることができるのです。

これはつまり、物事・人間・認知が存在しなければ、価値の存在もないということができます。

このことから、最も注目すべきポイントは人間の認知と対象の関係性だと考えられます。

 

現在、個人のニーズに合わせたサービスや商品は提供されているのか?

以前はマスをターゲットにしていたサービスや商品は、現在では細分化されたセグメントに対してサービスや商品が提供されています。しかし、このような状況でも個人のニーズにフォーカスしたサービスや商品の提供がされているかというと疑問が残ります。(もちろん個人のニーズにフォーカスしていく流れはありますが、筆者は満足していないという程度の意味)

なぜなら、現状はネット上で人の動きは追跡できますが、現実世界の人の動きは追跡がなかなかできません。データを取得するための多くの人々が使うほどの魅力的なサービスや商品がない、できたとしてもコストが比較的高い、プライバシーなどの問題あります。

それに加え、日本の企業側の問題として開発に関わるコスト、人材不足といった理由により個人ニーズの開拓が遅れています。単純に社会的な需要が増していることから、供給が今後増えていくと考えられるので、経済学的にコストは今後低くなっていくことが予想されます。しかし、人材不足に関しては、コスト問題よりも先が見えない状況になっています。

以上のように述べましたが、要するに、僕の理解としてはまだまだ企業やサービス提供者は個人のニーズを満たしきれていないと考えています。

今回の記事での主張はあくまで格差(違い)があるからこそ物事に価値を見出せるということですので、細分化されたセグメントもそれぞれ違いがあるからこそ価値があるということです。

さらに話を進めて個人レベルでもそれぞれの個体で違いを認知してそれぞれのサービスや商品を提供できるのではないでしょうか?という問題意識まで話しましたが、今後は個人レベルのニーズをどのように満たしていくのか?という問題意識から理論的なことから技術的なことまでをテーマにしていこうと思います。

 

最後の方は適当になりましたが、今回の記事の主張は、

格差があるからこそ物事に価値を見出せる(格差≒違い)

ということです。